遠賀高校の功労者
遠賀高校に貢献された方
新校舎移転にご尽力いただいた方々
松尾武氏(本校昭和4年度卒)
昭和30年代当時の八幡市則松の本校旧校舎は、炭鉱の地下掘削の影響で地盤沈下を起こし、その影響から、もともと老朽化していた創立時からの校舎や設備は、更に亀裂損傷が激しくなっていました。この様な現状に対して、昭和34年に改築推進委員会が設立され、幾度となく陳情を行い改築の計画が持ち上がるも、その都度、新たな問題が生じ計画は前進しませんでした。そこで、改築推進委員会は、校舎の「移転」を踏まえた改築推進に舵を切ることになります。
昭和37年に、移転改築推進委員からは毛利隆太校長・白石喜代章PTA会長・大庭善三郎同窓会会長が、そして行政からは北九州市長・議長・教育委員会委員長が県議会に対して本校の移転改築の陳情を行い、時同じく大庭善三郎同窓会会長が上京し、本校の教育内容や農業高校の存在意義に深くご理解される地元遠賀町選出の三原朝雄代議士に、移転改築推進委員長への就任を懇請しました。
三原代議士には、福岡県議会議員時代から本校の改築推進委員会に顧問となっていただいており、移転改築推進委員長への就任の依頼にもご快諾いただきました。ここから本校の移転改築事業は、三原朝雄委員長を筆頭に、浜中茂足・向坊そめ両県議会議員・遠賀町小川登一郎町長・遠賀町議会柴田貫蔵議長・松尾武北九州市会議員(本校昭和4年度卒)、そのほか多く方々のお力を頂きながら陳情を行い、昭和39年に校舎の移転改築認可がおりることとなります。認可後も引き続きまして、北九州市から遠賀町へと自治体を跨いでの移転に対する各方面への働きかけや、林野庁国有林払い下げの折衝、校舎建築予定土地の選定・取得や建設等、昭和46年の新校舎移転に至るまで、大変熱心にご支援を頂きました。
このように、創立時を凌ぐほどの困難を極めた本校の移転改築計画は、三原代議士をはじめ、上述にあります多くの方々の長年に渡る多大なご尽力によりまして、ここ遠賀の地に近代農業設備の整った現在の校舎の完成として、実を結ぶことになりました。
活躍する卒業生
農学博士
栗山英雄会員(大正11年度卒)
栗山英雄博士は本校を大正12年に卒業し、直ちに九州帝国大学付属農場の研究生として3年間の課程を履修、その間に小学校農業専科訓導の試験に合格ししばらく岡垣町吉木小学校や若松区島郷小学校で教鞭をとりました。
その後、九州帝国大学農学部作物教室助手として、後に日本学士院賞を受賞する農学界の大斗、盛永俊太郎教授の研究を支えることになります(九州大学百年史 第6巻 : 部局史編 Ⅲより)。師となる盛永教授が鴻巣農業試験場長として中央に栄転されるのに従って栗山氏も同所に赴任し、戦後農業技術研究所が設立されると、第四室主任に任命され水稲の遺伝・染色体の研究に専念し大成します。
この時の研究業績によって、本校を最終学歴としながら、昭和35年日本大学にて、タイトル「稲の出穗性に関する研究」で学位論文通過、博士号(農学博士)を授与されました。
剣道範士八段(岡垣町白雲錬成会創設者)
吉田次郎会員(昭和5年度卒)
米国は太平洋戦争後に我が国を占領し、そこからGHQによる軍事色を一掃するという方針が生まれ、武道は全面的に禁止されました。特に剣道は、戦争に加担した部分が大きいとして昭和28年に禁止が解かれるまで、厳しい対応が続きました。
そのような時世の中、本校を昭和6年に卒業した後、国士舘専門学校(現・国士館大学)で剣道を修め、範士としてすでに活躍していた吉田次郎氏は、福岡県剣道連盟の重鎮として福岡県の剣道再開に向けて尽力されました。岡垣町では白雲錬成会を創設するなど特に遠賀郡内(現・中間市、遠賀町、水巻町、芦屋町、岡垣町)の剣道の組織づくりを行い、遠賀郡内の剣道の復興に寄与しました。その後、全日本剣道連盟でも重鎮として活躍し、今日の剣道の礎となりました。
岡垣町では、町主催の剣道大会に吉田杯争奪戦と名付け毎年開催し、吉田氏の偉業とその高潔な人格を後世に伝えながら、青少年の健全育成に努めています。
以下は写真と共に飾られている紹介文です。
故範士・八段 吉田次郎先生
剣は豪毅果断にして、その性格は清簾謹直、天賦の才能と高潔な人格識見は常に世人の師表たり。岡垣町白雲練成会創設の父として、この武道館落成を待たず逝去され慚愧の極みなり。
昭和57年9月27日没(68才) 合掌