一般社団法人 遠賀高校同窓会

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百有余年の歴史と伝統

遠賀高校 歴史アーカイブス


官報(1)
官報(2)

遠賀農学校設置の認可を記載した官報

 国立国会図書館にある明治43年の官報に、遠賀農学校設置について認可の記載が見つかっています。

 遠賀高校の歴史を紐解くための第一歩になる資料です。

福岡県遠賀郡折尾村ニ農業学校規定乙種組織ニ依リ福岡県遠賀郡立遠賀農学校ヲ設置シ明治四十四年四月ヨリ開校ノ件認可セリ

明治四十三年十二月八日 文部大臣 小松原英太郎

 上の文章が2枚目画像の左上部分に記載されています。

水巻高校 校旗

水巻高校 教科書

当時の校旗と教科書

水巻分校の存在を今に伝える貴重な記事

 2018/03/17付 西日本新聞朝刊に水巻町立水巻高校(前身は遠賀高校水巻分校。昭和27年に独立、昭和38年廃校)について伝えられた貴重な記事が掲載されました。

11年だけ存在「幻の高校」 戦後、エネルギー革命で廃校…実像に迫る 水巻町 [福岡県](西日本新聞社のページに飛びます)

 以下、記事より一部抜粋です。

 「増補水巻町誌」などによると、水巻高の前身は私立高松鉱業学校。町内などで採炭事業を展開していた日本炭鉱(日炭)が、鉱員養成のため設けた学校だ。戦後の学制改革で水巻町に移管、遠賀農業高(現遠賀高)の分校となり、52年に独立。当時は県内唯一の町立高校だったという。

 定時制の普通科と採鉱科の定員は各50人。平屋の校舎2棟と、柔道部や写真部などの部活用の建物が、現在の「吉田グランド」(同町吉田西3丁目)近くにあり、校庭がほぼそのままグラウンドとして残る。61年度の町勢要覧によると、全校生徒は男子102人。

 日炭の「企業城下町」として栄えた水巻町は、同社の経営悪化を受け町財政が悪化。入学者の激減もあり、水巻高は63年春に廃校となった。最後の卒業生は24人だった。

 他に手掛かりがないか、町歴史資料館(同町古賀3丁目)を訪ねた。水巻高の資料は常設展示品の中になく、収蔵庫を探してもらうと、革張りの箱に入った校旗が見つかった。半世紀以上前の品とは思えないほどきれいな状態に驚く。

 「そういえば教科書もあったかも」。親切な職員がさらに収蔵庫をチェックしてくれた。すると、二つの段ボール箱の中から、学校印の押された数十冊の書籍を発見。採鉱科のあった高校だけに、「鉱山機械」や「坑気調整学」、「ベルト・コンベヤ」など難しそうなタイトルの本が並ぶ。

 3巻組の「最新炭鉱工学」のページをめくる。ドリルなどの採掘機械や爆薬の使い方など実践的な内容。時折鉛筆のようなもので下線が引かれていて、一生懸命に学んだ跡がうかがえる。落盤や炭じん爆発など事故についても詳しく触れており、「危険と隣り合わせの現場を学生に理解させよう」という真剣さがひしひしと伝わる。

日の丸の持ち主 遠賀農学校の人?

 西日本新聞に、「旧日本兵の遺品と思われる寄せ書き日の丸の持ち主は遠賀農学校に在籍されていた上田主基男さんではないか」との記事が掲載されました。

 以下、新聞記事より一部抜粋です。

日の丸には「上田くん」「主基夫男君」「福岡県田川農林学校」「遠農健児」などと記されている。

~略~

 日の丸は縦67センチ、横90センチ。郷友連盟によると、田川農林学校(現田川科学技術高)の1946年卒業生名簿に上田主基男さんの名前があり、寄せ書きした人の名前の複数が遠賀農学校(現遠賀高)の卒業生名簿と一致する。連盟は持ち主の男性が遠賀農学校から田川農林学校に転校後、出征した可能性があるとみている。

 ご遺族捜索のお願いや受渡式の様子、その後無事発見された様子の記事はこちらです。

 上田主基男さんご遺族捜索のお願い | 郷友福岡

 「寄せ書き日の丸」の受渡式 | 郷友福岡

 上田主基男 命 | OBON SOCIETY

 (上記リンクは外部ページに飛びます)